カーライル伝①生誕~Sartor Resartusを書くまで

トーマス・カーライルは、1795年の12月4日にイギリス、スコットランドのエクルフェチャン(Ecclefechan)で生まれた。

父親は石工であり、トーマス・カーライルが生まれた家も父親が自分で建てたものだった。

5歳になると母親が読書を教え、父親が算数を教えた。そして、村の学校にも行って勉強を行った。カーライル家は決して裕福ではなかったが、トーマス・カーライルには良い教育を受けさせることにしていた。10歳になるとさらに高度な教育を受けさせようとトーマス・カーライルをAnnanにある学校に送った。トーマス・カーライルは暴力的な気性を持っていたから、母親が心配して暴力は振るってはいけないよと約束をした。トーマス・カーライルはその約束を守り、暴力は振るわないと心に誓った。しかし、暴力を振るってもやり返してこないトーマス・カーライルをみて同級生たちは格好のいじめの対象にした。結局、3年でトーマス・カーライルは学校をやめた。その時、14歳になる前であった。

その後、トーマス・カーライルは、エジンバラ大学に入学した。大学生活についてはよく知られていないが、5年後の19歳で教員となった。しかし、教えることが好きでなかったトーマス・カーライルは教員であることをやめてしまった。また、父親の願望であった大臣になる夢や法廷弁護士になる夢もやめてしまった。その代わり、ドイツ文学の翻訳を初めていて、「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」(ゲーテ)などの翻訳を行っていた。この時、トーマス・カーライルは、自分の人生をかけた大事業は、著作にあると考えるようになっていた。

また、トーマス・カーライルは、Jane Walshという美しく、賢い女性と出会った。彼女は、トーマス・カーライルを、とても貧しいが才能がある青年だと見抜いていた。結局、トーマス・カーライルは彼女と結婚をした。しかし、結婚後もお金に苦しみ、彼女の実家であるエジンバラの郊外に引っ越した。そこは、郵便物が一週間に一度しか届かない辺鄙な場所であった。

しかし、トーマス・カーライルは、この静かな場所を気に入り、本を書くことに打ち込んだ。この時、彼が書いていたものが、名作「Sartor Resartus」であった。

トーマス・カーライル

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トーマス・カーライル大英帝国絶頂期のヴィクトリア朝の時代に活躍した歴史家でありエッセイストです。

 

カーライルは、日本でとても読まれていた作家のひとりでした。

夏目漱石は、カーライルを尊敬する作家のひとりとしており、ロンドン留学中にカーライル博物館に何度か訪れるほどでした。(青空文庫のカーライル博物館を読んでみて)

また、新渡戸稲造がカーライルの著書である"Sartor Resartus"を愛読書にしていたりと明治時代の知識人に大きな影響を与えてきました。

 

それほど影響力のある作家にも関わらず、現代になりその影は薄くなり、今では日本語訳されている著書を探すだけで一苦労です(泣)。

 しかし、カーライルの著作には今日にも生かせる教訓がたくさん詰まっています。

そこで、このブログではトーマス・カーライルの著書を取り上げ再びカーライル熱を盛り上げたいと思っています。

 

このブログは、Project Gutenberg(青空文庫みたいなもの)にアップロードされている著作をもとにして書いていきます。皆さんも無料で使えるので一緒に読んでみてください。